CONNECT / 110225 shotahirama

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Anarktyp [6' 49" ]
byENG

[7]例えばJonathan ColecloughであればICRから05年発表のLong Heatですかね。Kuwayama KiyoharuさんというkapottemuziekとかつてスプリットをリリースしていたLethe名義のコルクロー共作作品。これはコルクローの作品の中でもかなり好きなんです。彼はポッターやテイトに比べて超現実主義的なオブジェクトを対象にして個人と常に項目間で対立しようと感覚的側面内で模索しているかのような探究心溢れる作品が多い。Paul Bradleyだったら間違いなくICRから03年のその名もTwenty Hertzです。持続音だからある一定の聴覚的時間が可視化される頃、例えば10分くらいったドローンには最低限のものは浮かび上がってくる、それを情緒的とか幽玄とか言うのは聴衆者の自由だけど彼のはコンテンツとしっかり付属されいるから恐ろしい。しかもわりと早めの時間帯から、この曲はこういう風景が見えますのでよろしく的な。まぁおしゃれなアーティストですとPaul Bradleyというのは。Oraは出来るだけこの括りで喋りたくないし、OraファンはきっとというかチョークファンはICRやtwentyをあまり好んでいないイメージがあるので避けましょう(笑)

レディメイドの乱用と変容 グロテスクな幻想を背後に病的もしくは性的な具音が持続、反復、コラージュといった運動により形成されていく音楽

[photo collage by shotahirama]

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激しく話が脱線しましたが(笑)とは言っても当時のelectronoise group明記時のサウンドクリエーション面においてこれらサウンドアートものは一切影響を受けずにすべてバイパスされていました。さらにはほぼ皆無と言っていい程、僕はノータッチ、グループでの音楽面にはそもそもあまり興味が無かったんだと思います。
大袈裟に言えば「どんな音になっても良かった」これも今だからこそ言えるんですが、キース・ロウのAMMの様に「打ち合わせ無し」によるノープランニングプレイが凄く自分的には”しっくり”きていた。単純に練習が嫌で、バンド形態の集合体が嫌で、嫌で嫌で、でAMM的即興論に(動機が不純だが)結果辿り着く、だから最終的なアウトプットそのサウンドにまで興味や意識を持続させる事が極めて困難でした。 それよりもいかに大人数で、いかに多くの機材をステージ上で横に並べて、それだけです。(確かKORGのエレクトライブの真空管ピンク、それとカオスパッドとか笑。KORG SE500:79年製テープエコーを使って無人演奏した事もありますよ。youtubeで恐らく今もその映像が確認出来ると思います)

では何故、このフリーインプロな表現方法が突然変異し本題の「ビザール」へと回収されたのか。創造的ではなく限りなく感情的なエリアに放置されていた僕らのクリエーションアティテュードが、何故まるで何かのインパルスによってピストン連鎖したかの様にそのシステムが停止したのか。それがビザールとの出会いでした。

shotahirama名義で活動している現在、僕のこの名義しか知らない方には唖然とする様な話だと思いますが、基本的に僕はビザールフリークです。性的な嗜好をカミングアウトしてるのではなく、サウンドに対して真正面に向かい合えない自分が結果辿り着いてしまった、悪趣味音響と呼ばれる(そう呼んだのは恐らく僕が最初ですが)もの。
グロテスクな幻想を背後に病的もしくは性的な具音が持続、反復、コラージュといった運動を音に成り得る最低限のレベルで形成されて構築されていく音楽。ビザールミュージック。

蘇る記憶というのはやはり中古レコード屋で働いていた時期ですかね。当時ノイズ/アヴァンギャルド担当であったとあるスタッフ、後に僕の師匠ともなる男、彼との出会いがやはり原点です。
彼との出会いに関しては、先程も少し触れましたがmAtterから発売予定の「ALL THE PRETTY HORSES」にて綴っていたと思うので是非そちらを確認してもらうとして、今回は「僕をビザール作品へと向かわせた初期衝動とは?」という事なのでこの師匠と呼ばれる男には触れずに(笑)彼から紹介してもらった幾つかのレコードを思い出しながらビザール考察なるものをここに打ち込んでみたいと思います。

エレクトロノイズグループ初期からほぼ同じタイムラインで僕はこの某レコード屋で働いていたのですが、ここで出会ったその男に渡された幾つかのビニールで、うんそれはそれは激変しましたね。それまでノイズというワードに誤ったアイディアがプラントされていた自分の脳と、ノイズという哲学その真相に愕然としました。 英国持続音響の巨頭2人、Dada Lives名義でもユニット活動しているDarren Tate(チョークの相方としてOraを牽引)とColin Potter(現在チベットと共にオリジナルNWWの一員)によるMonos名義のGeneratorsという作品です。Die Stadtから05年リリースになってるかな、brainwashed.comで確認すると。これはCDでした。表現するならこんなテキスト。

この2人によるうねりも波もない、ミナモも死に絶えた動かぬ水面の様なドローン、割れた鏡の様な主想旋律が深く仄暗い最下層で機能している。
喪失した記憶と硬直した身体、無数の蠅。土の中で埋められた過去の男が蠢き、垂れ流す精液の匂いを地上側から嗅ぎ取り辿い飛び交う幾千もの蠅。
場面はさらにひとつの音となり、執拗に展開していく次元と次元と次元と、それらディベロップメントも構成も思想もその速度を次第に落とし、しかしゆっくりと、シークエンス化し、そして半永久的にそれは持続する。
そこへ合成されていく、思弁的とも捉える事が可能だろうか、幻想性たっぷりの具体音。それら構造体が持ち始めた意識はアンプリファイの度に再び喪失する。それらアムニジアックなレイヤーの差異と反復がこのMonosの音楽である。

とても当時の僕の聴機能でこれを音楽的に捉える事は難しかったです。だからテイストでコンバートする事が精一杯でした。その時は、うーん、官能的だったというか、ベンヤミンの本に乳房崇拝って言葉が出てくるんですが(笑)男性の欲望の対象としての女性の役割、僕個人の意見ですがこの作品を最初に聴いた時、このドローンにはあるレベルでその女性的支配下に似たとある”力”に屈した己を感じましたね(笑)

女性差別的な発言になりそうで怖いけど、あくまでベンヤミンの文面がここに当てはまるというだけの事です。乳房崇拝、なんというか生物学的なエロティシズムにコネクトされた心象世界。官能性。音が死んでいる音響、音がまるで響かないんですよ、それはそれは薄気味悪くて。空間には音がねっとりとこびり付いている、子供ひとり分の重さ程のサウンドと腐ったカウパーの様なレイヤー。そこに異常な興奮を覚えてしまった(笑) まるで乳房を初めて拝めた時の様な、冷静と勃起の間あたり。ただ黙々と触り続ける、もしくは見つめ続ける、体内にある全ての液体がある部分に向かってジェネレイトしていく。エロティシズム。彼らの持続音響にはそんなコンテンツを持ち合わせていた。

なんとも悪趣味な話だけど、それに反応した僕はなおかつ悪趣味で。そんな音は今まで聴いた事が無かったからか(そもそも聴くという行為自体、自分のハードディスク内に貯蓄されたメモリーとの照らし合わせですからね、つまり「聴いた事がない」というのはそのハードディスクの中にMonosの様な音が存在してなかったという意味)それにあの1枚でこんな体験を誰もが出来るとも思いません。しかし少なからずとも僕がビザールに、性に、目覚めるきっかけとなった1枚はMonosのGenerators、その官能性ですね。グロテスクな幻想を背後に病的なあるいは性的な、何か具体的なイメージが付随している具音が持続もしくは反復またはコラージュされ形成されていく音楽だったんです。

その後twentyheartsからICRに至まで、英国のビザールドローン[7]は相当聴き込みましたけど、その辺の作品は正直まだドローンのみに特化している作品が多くて、ビザールと呼べるものはそう多くはありませんでした。そこで、その師匠なる男が次第にエスカレートしていく訳です(笑) そんなMonosやらを軽く吹っ飛ばすヒーマン、ナース、チョーク、マッケンジーとその後出会っていく訳なんですが、その辺はまた次回。僕をビザール作品へと向かわせた初期衝動とは?との問いだったのでこの答えはここら辺ぐらいで(笑)まぁいずれにせよ僕のビザールその原点というのはここ、Monosなんです。

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