CONNECT / 110225 shotahirama

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Anarktyp [6' 49" ]
byENG

[8]Alas The Madonna Does Not Functionは僕のステイプルトンリストでは上位にあります。これはリチュアルとコラージュの間かな、でも凄くインスパイアされた作品。オリジナルはUDから88年の12インチ。

[9]ダイアナ嬢はフィストファック名義でもいい作品がありますが、Chrystal Belle Scrodd名義では全曲旦那ステイプルトンがミックスを担当した名作も存在します、UJから07年に出た「The Lights Are On But No-One's Home」も狂ったダレンカールトンに黒魔術師ステイプルトンが鬼畜レイプ、それをハメ撮りするコリンポッターが編曲を担当した名作でして。

レディメイドの乱用と変容 グロテスクな幻想を背後に病的もしくは性的な具音が持続、反復、コラージュといった運動により形成されていく音楽

[photo collage by shotahirama]

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- ENGの音響作品からは80年代を中心に活躍していたNWWやHNAS、LAFMS系のアーティストたちの影響を感じ取ることが出来ます。ある側面において、彼らが含み持つ想像力やその内面性を引き受け、現代においてそれらを接続/再生/展開していると言えるENGにとって彼らの存在や作品はどのように位置づけられ、ご自身のビザール音響へコンバートされているのでしょうか?

- ENGの作品ではコラージュが手法として用いられていますが、現代では、都市空間のみならず、生活空間においてもまた様々なオンライン・デバイスやwebサービスの誕生によって、ありとあらゆる情報やイメージ群をまさにコラージュのようにして加速的に享受し、消費しています。このようにコラージュ化された拡張的身体性が支配的なポストモダン的時代状況の中で、“表現としてのコラージュ”はここで何を問い、何において問われ、同時代的有効性を持ちうると考えられますか?

連動させて答えてみたいと思います。フォトモンタージュにおいて最も大きな特徴というのはやはり、既製品、レディメイドの乱用でしょう(デュシャン的なアークタイプではなくて、あくまで最下層のレベルでの「乱用」という意味です)作品をハサミで切り取って、例えばそれをさらに細かく切り刻む、それぐらいのレベルで。子供でも可能なこの単純作業は、しかしそれでもそれは確実にレディメイドの破壊を意味するんです。崩壊。で、さらなるプロセスがこの次に必要になります。そこから再度組み立てという、「新建築行為」へと移行するのです。崩壊からの新建築。これをドイツではノイバウテンと呼ぶらしいですが。

特にフォトモンタージュの場合、ハサミとテープという簡単な作業の繰り返しで充分ノイバウテン論が完結するという所に魅力がある。そしてこれは時に自分が、もしくは人が想像し得る範囲内の幻視的イマージュを軽く越える、つまり想像を絶する作品が手元に完成してしまう事もある。その瞬間は恐らくアートと呼ぶに相応しい時点にあると思うんです。たかがテープ、ハサミのカットアップオペレーションなのに。これはたまらなく興奮します。

今ここで述べている事は、何をアートと呼ぶか、とかそもそもの概念や人のステレオタイプをグリッチ化する事、等のアートとは何たるかを論じているのではないんです、あくまで個人的アークタイプ論を展開しています。僕が言いたいのは「こうした操作、マニピュレーションというのは音楽的概念にそのまま移植する事が出来る」という事。ブラックカルチャーで言う所のサンプリングとは「違います」。
あくまでも空間図形的に、楽曲が存在しているグリッドラインを切り刻むのです。僕はゼロ年代ミュージシャンなのでラップトップを多用します。フォトモンタージュという方法論をラップトップに落とし込んだ上で完成される平面図を前述したオペレーションそのシステムで音楽制作にバウンスする。コラージュミュージックはそうした操作のみで完結される。

そこで大事なのが、ソースを何にするかです。どのレディメイドをカットアップするか。ナースは間違いなくその選択眼においては飛び抜けて歪です。ダダイスティックな具音、シュールレアリスティックな抽象音、それらアブストラクトとコンクレートのパッチワークは奇怪と呼ぶにふさわしい程ビザールシックであると思う。(因にNWWの初期はコンクレート、コラージュの名作だらけです。中期はドローンが多くみられます。近年はほぼリチュアルやスカムラウンジといったリスニングミュージックです)

例えば「Alas The Madonna Does Not Function」[8]なんかはそのいい例です。sideAはカレントのチベット先生とステイプルトンの嫁(何人もいますが)Diana Rogerson[9]がギターを弾いています、sideBにはステイプルトンがフルートを吹いています。SwansongというタイトルでNWWフリークにはかなり定評のある曲、これはなんとvoiceにBabs Santiniが参加しています。NWWのUD作品のほとんどJKTデザインがこのBabsで、必然的に僕の師匠ですね(笑)フォトモンタージュにおいては。そんな彼が参加しているという事もあり、この作品のsideB、Swansongが僕が言うレディメイド乱用からのプロセスとして「こうした操作、マニピュレーションというのは音楽的概念にそのまま移植する事が出来る」と提示したそのマシーンを自在に扱った例として挙げておきたいです。

LAFMSで言えば、彼らは恐らく50年代の古き良きアメリカ大陸、東から西までそのものをレディメイドと定義し切り刻んでいる。文化的側面にサウンドを紛れ込ませている。リックポッツかなんかがジャスパージョーンズと叫ぶのがそのいい例。

で、ENGは?僕はその彼らを、です。ダダやシュールに強くインスパイアされ時代のアウトサイドに立たされた彼らの作品を多く切り刻んでいます。 まぁそもそも僕があの界隈のビザールものをヘビーコレクトしていた時期に突入していたからというのもあるんですが。

つまりダダや、シュール、アムニジアック、ディストピアン、スカム、ハーシュ、インダストリアル、リチュアル、エホバ、これら非線形レベルにある個人的ビザール分布の中で蠢き喘ぐテープスやヴァイナルをレディメイドとして定義するんです。そうした場合にハサミとテープで、つまりグリッドライン上でのカットアップとエディットで、もちろんアナログライクにやる事も多々あります。テープデッキで、レコードプレーヤーで。そうしてコラージュ、レディメイドの乱用とその変容(完成された構造体にエフェクトをかける事)を提示する中で浮かび見えてくる現代的思想とは何か?僕の場合はこうしたプロセスの中で最終的に出来上がった作品を、ようやくこの最終地点でサウンドからアートへとアップデートします。

ビザールをソースとしている為同時代的有効性なんてものはすべて無に等しいとも思えますが、無効です、それ以前に僕が定義したレディメイドの乱用こそはアートの土台にもなり得る。ENGが強くダダイズムやモダニズムにもリンクしている理由はここです。乱用と変容とさらなるアップデートとしてのデザインを施す。このデザイニングという行為そのものが恐らく僕がゼロ年に、もしくはイチゼロ年にダダをフィードバックさせた新時代的解釈の結果であると思います。

ENGにとってのダダイズムの、もしくはビザールの新時代的解釈とは?
それは僕が今この時代にlaptopを操り彼らダダイストを乱用操作、そして新建築する事にあります。バウハウスやモダニズムについて言及されている質問に繋がるので、あえてこのデザインアイディアについてこれ以上ここでは語りませんが。しかしそもそもENGにおいて新時代的、現代的思想とは?これは問う事に意義があると僕も思います。しかし答えるのはシソチズでいいんでないでしょうか?(笑)僕はいつの時代でもそれら思想とやらに定義されてしまったアイディアを乱用するまでです。ましてやダダイズムです。ノイジシャンです。定義する程そもそも今の時代的背景に面白みをあまり感じないと言われる位だし。しかしインターネット上のネットワーク社会には激しくビザールとダダを見いだす事が出来る。今回のインタビューの最後の方でその真意を語りたいと思います。

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