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Anarktyp [6' 49" ]
byENG

[16]VODからの09年作品Miscellany Deluxe (Souvenirs Perdus D'antan) についてのライナーノート:テープミュージックに、ノイズコンクレート、ビザール音響、ヨーロッパインダストリアルなどオーナーの保管しているアーカイブでどこまでやっていけるのか、そろそろネタ切れVODことVinyl on demandから待望のAndrew Liles。しかも3枚組LPのBoxセットでなぜか幼児性愛者丸出しなピンク色のTシャツ(羊が4匹にショートケーキとその周りを医療器具が囲むメルヘンなプリント。意味わかんない)が付属する限定300もの。余談ですが、デマンドが言う”限定”はシカトしましょう。デマンド歴が長い私が言うので。で、話をLilesに戻すと、全体的な雰囲気はアンニュイ?キッチュ?シュール?ダダ?例えて言うなら、下校途中の小学生を拉致して閉じ込めたカビだらけの下水溝で、トイストーリーを黒魔術調に仕立てたベルメール風作品を爆音で聴かせる/観せる。ぐちゃぐちゃぐちょぐちょ飛んでくセンスゼロな具体音にとことん精神を崩壊させられる、狂った男の子は泣き止まない。性的いたずらをしてくる主人公はぶくぶくに太った白人の老人。無我夢中にショートケーキを素手で喰いまくる、びちょびちょびちゃびちゃ、その音をピクサーに許可無しでドリーミーにリミックスしたブラックディズニー風音響。まじで頭いかれてる今作、Liles作品の総決算。気づけばほぼNWWのメンバー?にまで成り上がった彼のその実力と、人を怖がらせる程の悪趣味、ビザールセンス、たっぷり味わえるハンスベルメールを敬愛するそこのあなた、お勧めです。くれぐれも真剣に聴かないでください。

レディメイドの乱用と変容 グロテスクな幻想を背後に病的もしくは性的な具音が持続、反復、コラージュといった運動により形成されていく音楽

[photo collage by shotahirama]

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- ビザール作品同様に呪術的あるいは猟奇的な音楽性をもちながらも、インダストリアル/ノイズ作品の多くが暴力や死あるいはセックスといった明確なモチーフやテーマ性をもっているのに対して、ビザール作品はそういったテーマ性さえも操作可能なものとして回収してしまうある種のシステムのようなものを思い起こさせます。それは永遠にプロセスとしてあり続ける限りにおいて成立可能であるような資本主義機械のシステムと似たようにも思えます。そういった意味においては、ノイズ以降のビザールという形式を問うことは、ポストモダン以降の存在様式を巡る闘いであると感じるのですが、その難問に立ちふさがれてもなお、ただひたすらにダダイズムを掲げ、ビザールという過酷な創造の戦場へと自ら赴き続けるENGはビザールにどのような可能性を信じ、その先にいかなる風景=パラダイムシフトを予見しているのでしょうか?

懐古主義的であるとよく言われます。レトロスペクティヴ。単純に、あの頃は良かったなぁ、と思いを馳せるある種情緒的感情。
ダダイズムが1916年頃、第一次世界大戦後の虚無感や大戦への拒絶、社会からの断絶、意図的な隔離、引きこもりですよね、さらにヒッキー達は自分たちの秘密基地から大声でダダ!ダダ!と叫ぶもんだから、これほど感情的なものはない。

で、僕がそういったものに思いを馳せていると、昔のアートは、とか、フルクサスに思いを馳せてあの時代のサウンドアートこそがすべて!とか。旧ゼロ年のMille Plateauxに思いを馳せて、あの頃のエレクトロニカこそが、とか。そんな懐古癖がある訳でもないんです。まぁ少しはあると思いますが。ただ単純に僕のルーツ、ビザールやNWWやNEや例えばフォトモンタージュ作品におけるルーツ、ジョン・ハートフィールドがそこにあるので、そこにある限り振り返る行為、この先程から連呼している「思いを馳せる」つまりそこをソースとして定義し、レディメイドとして定義し、そこからピックアップするという行為はある意味必然的な事ではないかと思っています。
そしてそれは彼らオリジネーターから幾つかのピリオド(時代)を経て、少なからずとも多少のアップデートを経て、今日の僕に届いている。

ダダイズムは、

1.ベルリンで新聞をバターナイフで切り刻んで新しい絵を創りだすというカットアップやコラージュといった「オペレーションシステム」を(ベルリンダダは政治的であったがニューヨークダダはより芸術的バランスが保たれた表現性能に優れたものにアップデートされていた)

2.60年代のフルクサスではそこに偶然性を導入し「チャンスオペレーション」を(ニューヨークダダの生き残りか、アートの側面のみで組み上げたダダイズムが偉大なるアウトサイダー達により、インスタレーションやミニマリズム、儀式、即興、持続等ダダアートのさらなる高性能化を実現した)

3.80年代のインダストリアルで社会主義による個々の腐敗や産業主義による金属の腐敗と共に汚染、破壊、といった精神への過度な圧迫、それによる疾患、崩壊、病的にコラプトしていくヨーロッパを反映した「メディアオペレーション」を(ヨーロッパダダの子孫か、イギリスを中心にかつてのダダイズムその政治的側面を強くフィードバックさせ、さらにはフルクサス以降のネオダダイスティックミニマリズムを吸収したネオネオダダイズムが完成する。それら攻撃力のあるポリティカルシックネスを訴えた作品の数々はSPKやTGの様なインダストリアルを産みそれをベクトルに、NWWといったビザールを産み、Nocturnal Emissionsといったテクノイズを産み、David Tibetといったリチュアルを産む。儀式的側面で言えばイタリアのビアンキもそうです)

4.そして僕がENG名義で予見、というか既に提示しているのはゼロ年代の「」を(これまでのダダをすべて個人的解釈で吸収し再構築してみせたニューダダイズム、ネオネオネオ。より解像度の高いサウンド媒体でのビザールプロセス。もしくはこれまでの時代性に適合していなかった為存在しなかった異空間システム、異空間アーキテクチャなるインターネットサーバでのクラウドコンピューティング、クラウド型サウンド、その配信によりビザール音源をさらに離散的、分散的、不特定、不確定、ランダムコンプレキシティーの強化、それらをlaptopひとつでデザインコントロールする、プライベートダダイズム。かつてのノイバウテンすらプログラミングを導入し、07年のAlles Wieder Offenにて「Let's Do It A Da Da」では見事にそれを表現しているのが分かる。ダダイズムのハイレゾルーション化。これは今の時代性にマッチングした合理主義的な考えではないでしょうか?)

5.そして恐らく今後はビザール、というよりもタイムラインは次なるダダイズムの変容を迎えているはず。つまり僕個人としてはバージョンのアップデートに興味がある。藤村先生風に言うと3.0とか3.1とか(笑)もっとその先へ更新する事に興味がある。
ビザールに関して言えば確実にライルズ[16]やMatthew Waldronのirr. app. (ext.)がナースの座を奪うでしょう。今や彼らの方がビザールへの忠誠心、探究心がある。というのもナースが最早幽霊的なポジションにある為、リチュアル後の衰退はMBでいい例であるし。まぁ褒め言葉ですよ。存在が神格化したと。

ダダのアップデートは今後もそれぞれの時代背景とリンクする事は必然だし、ポリティカルな側面はそもそもダダの一番のソースな訳で、今後も社会的一般的に拒絶希望があるデバイスとシステムが現れるはず。

2ちゃんなんて、インダストリアルですよ、だから今後も。例えばスティーブ・エリクソン的幻視を要するに過ぎないあくまでもイメージ上でのパラダイムシフトその予見ですが、うーん、もっと世界的なコミュニティになるんじゃないですか?それまでどの時代も同時多発的ではありましたが、各々の国で特に意識的に連鎖しようとした訳でもないのにそれぞれの国でダダが自然に生まれる。小さなコミュニティが生まれる。各所で。
しかしそれらがクラウド化する事が可能な今、それが実現されるであろう未来に、ダダは世界的なムーブメントになり、トリスタンが1916年にダダと命名してからちょうど100年の2016年、キャバレー・ヴォルテールと化したソーシャルネットワークシステム上でダダ会議が再び起こるんだと、僕は思います。[END]

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